あの夜から何日経っただろう。
空の梵痕を見るともなく眺めながら、明神はぼんやりとソファに身を沈めていた。
アイツが最後にくれたもの。
俺はここから自分の道を行く。
そのための最後の。
最後の指先。
確かに触れた。
感覚が残っている。
アイツが俺に触れた指先。
「……バッカヤロウ。」
未練もねーのかよ。
見てけよ。うたかた荘。
てめぇが買ったボロアパート。俺がちゃんと管理人やってっから。しっかりやってっから。
そうそう、床な。あれ、何?ウグイス張り?ここんとこずっと、二条城よりすげぇ音がするから、一度試してみろって。ってか、すごすぎて脱衣室のトコの廊下、一昨日踏み抜いた。オッサンが見たら涙流して爆笑するくらい、見事に踏み抜いた。
あ、あとな、あとな。シャワーが最近すげぇんだわ。この前、蛇口が取れた。あれ、簡単に取れんだな。でもなかなか戻らなくて往生してさ。もちろん直したけどな!管理人だからな!
それから、あと五号室の天井板、前からがたがた言ってただろ?あんとき、オッサンがほっとけって言ってたからほっておいたんだけど、気になって去年はずしてみたんだよ。そしたら天井裏からエロ本の束が出てきてさ。誰がこんなトコに隠してんだよ、どこのマセガキだよって大笑いしたんだけど、すぐ気づいた。あれ隠したのオッサンだろ。なんだその、管理人室にとってあるからよ。全部。ヒメノンに見つからないようにとってあるから。
なぁ、オッサン。
うたかた荘、ちゃんとやってっから。
ちょっとだけでいいから。
見てけってんだよ。
バッカヤロウ。
そんな明神の思考をさえぎるように。
「兄貴。エロ本っすよ。」
「……ツキタケ。お前は見るな。刺激が強すぎる。」
鍵を閉めてあるはずの管理人室から不穏な会話が聞こえてきた。
ちょっと待て。
お前ら、何見てんだよ!
それは師匠秘伝のエロ本なんだぞ!
じゃなくて。
ばーんと管理人室の扉を開けると、ツキタケを抱えて壁を抜けて行こうとするガクと目が合った。
「エロ管理人。」
べ、と舌を出すガク。
はぁ、と明神は大きくため息をついた。
「勝手に部屋ん中、見るなよ。あと、アズミとヒメノンには言うな。絶対!」
ガクはもう一度、べ、と舌を出して、しかしそれ以上は何も言わずにリビングへと出てきた。そこは男同士、というものかもしれない。
ガクだって生きてたころは俺とかオッサンと同じ男だからな。んな、キヨラカなわけがねぇ。
神妙にガクに持ち運ばれていたツキタケがにわかにじたばたと降りたがって暴れ出す。黙って床にツキタケを置き、陰気で緩慢な動作で、ガクは壁に寄りかかった。
その瞬間。
ふと、ハセの横顔が脳裏をよぎる。
死んだ瞬間から陰魄だったわけじゃない、だろ。お前だって。
もっと前に誰かに出会っていたなら。
例えば、アイツに、出会っていたのなら。
ハセ。
それでもお前は陰魄として、アイツを食ったのか?
あるいは。
俺がアイツに出会っていなかったのなら。
ハセ。
俺もまたお前と同じように……
「何考えている。エロ管理人。」
ガクが陰気な顔で明神を覗き込んだ。
「何でもない。」
ソファに身を投げ出すと同時に、玄関の扉が開く。
「ただいま!」
「おーう。おかえりなさい。」
姫乃とエージ、そして途中で合流したのだろう、アズミも一緒であった。リビングはにわかに活気付く。
姫乃とガク、エージとツキタケが何だかわいわいと盛り上がって。
アズミは四人の間を駆けずり回ってはしゃいでいる。
「……。」
腕の梵痕。
アイツが残してくれたもの。
だけど。
残してくれたのは、それだけじゃなくて。
このボロアパートと住人たちとエロ本と。
だけどアイツに会えなかったら俺はきっと。
なぁ、ハセ。
俺と……お前はどこが違っていた?
「明神ー!!!」
アズミが飛びついてくる。
「何考えてるの?」
さっきガクが聞いたのと同じ問いかけに笑みがこぼれた。
「いろいろ、な。」
畳み掛けたのは姫乃。
「……ハセって陰魄のこと?」
姫乃はときおり妙に鋭くて困る。
「ま、いろいろとな。」
姫乃が真顔でソファの前に仁王立ちになった。
「私ね。ずっと聞きたかったことがあるの。聞いていい?」
「ん?」
はしゃぎまわっていた連中の視線が姫乃と明神に集まる。
「ハセって陰魄のこと。」
「ああ。俺で分かることなら。」
前のめりに座りなおし、サングラスを上げる。
「ずっと気になってた。すごく。」
「おう。」
「髪の毛の輪っか。」
「……お、おう。」
「ジャンプするとき、顔にぶつかったりしてなかった?」
はて。
明神は首をかしげた。
「どうだった?ガク。」
「見てない。」
なんでヒメノンは。
あんなピンポイントなところが気になるんだ?と。
男二人は思案する。
「だって危ないよ。あの輪っか。」
「まぁ、確かに邪魔っぽかったが。」
第一、命がけで戦っていたわけである。確かにハセは飛んだり跳ねたり大忙しだったが、ヤツの輪っかなど気にしている余裕は明神にはなかった。
「姫乃、髪長いから、やってみたらいいよ!」
アズミのさわやかな提案に。
姫乃はぽんと手を打って。
「そうだね!アズミちゃん、ちょっと試してみようか!」
女の子二人。
嬉々として去ってゆく後姿を見守って。
男四人。
改めて首をひねったのであった。
あの輪っかが、なんでそんなに気になるのかね?
なぁ、ハセ。
お前の輪っか、なんでか大人気だぞ?
姫乃の軽やかな歩みに合わせて床がぎしぎしと鳴っている。
窓の外には穏やかな西日。
そんなうたかた荘の午後のひとときが、なにごともなく、ゆっくり静かに過ぎてゆく。